広がる“生きづらさ”多くの問題を先送りしてきた日本社会の歪の表れでは

NHKクローズアップ現代+で、相模原市の障害者施設の件に対し、障害のある人だけでなく、様々な立場の人が傷つき、苦しんでいる、ということが取り上げられてました。

生きづらさを抱えた人が、生きていてはいけないのでは、襲われるのでは、と。
いいようのない疎外感、不安、希望を持てない感じに陥っているんだな・・・と思います。

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弱者切り捨ての風潮?

番組では、池上彰さんが、
「もしアメリカだったら、大統領が「私たちみんなで守る」と声明を出したんじゃないか、国が守るって言ってもいいんじゃないか」 と言われてました。

・・・私もそうだったらいいなという気持ちはあるものの、それはありえないよ、と思いました。

日本は、弱い立場にいる人が社会のすみっこで我慢することを強いることでなりたってきたんじゃないでしょうか。
障害のある人はまだまだ世間から離れた状況での教育とか生活とか多いですし、
生活保護にしろ、非正規労働、男女格差、低賃金、生活できない年金、予算にしめる教育費の低さなどなど。
多くのことを、先進国中で低レベルと指摘されても、後手後手にしてきてるのです。

いつでもだれでも、障害者になりうるし、その家族になりうる、経済的に生きていけない状況になりうる、そういう視点がまったく欠けてる国だと思います。
弱者を切り捨てる風潮が今おこったのではなく、それで成り立ってきたのであって。
ただ、弱者の割合が非常に増え、困窮度も増し、社会的な不安も増す中で、顕在化してきたのだと思います。

ありのままでいいと思える社会は

それでも、番組で、私が印象に残ったのは、
「僕らは僕らにしかできないことをありのままにやっていけばいいと思う」
脳性まひがあって、音楽活動を続けてきた男性の言葉でした。
障害者と遊ぶのは疲れる、と言われ、悩み考え続けてきて、この言葉になったという経緯があって。

これって、今、生きづらさを抱えてる人、私も、同じなんじゃないかと。
つらくなってしまった経緯は様々だとしても、やっぱり、ありのままでいくしかない。
これが、「いいと思う」に変化するまでがすごく遠い気はしますけどもね。

少なくとも彼はそこにたどり着いたんだ、そう思うと、すごく心強い、勇気づけられました。

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多様性の価値

進化の視点でみると、人間の認知や行動は、多様性を尊重してきたのだ、との指摘が。
現在の日本ではそうはなってないんですよね・・・

でも、障害者雇用など多様な人材を活用している企業は人を大事にしている、と。
ある企業では、うつ等の社員を障害者もいる職場に配属することで、8割が復職につながったとか。どうすれば働きやすくなるか、いい関係性が生まれるそうです。

また、地域で、障害のある人ない人とが関わる場を作ったところ、生きづらさを抱える人にも元気を取り戻せる場になっている例もありました。集団生活になじめなかった子どもが元気に遊びまわってましたよ。

やっぱり、多様な中で生活するっていうのは大きいと思います。
自分は自分でいいという感覚をもちやすかったり。
自分ができることをお互い助け合うというか、持ちつ持たれつがあって、喜びとか楽しみがあるように思います。

 

では、重度の障害者は他者に何を?と思うかもしれませんが。
以前、脳性まひでほぼ寝たきりという状態の子どもにすごいエネルギー感じたの覚えてます。

うまく言えないけど、存在そのものが持つ影響力というか、考えさせられたり感動したり、そういうのはその子からもらった大切なものです。私は当時かなり精神的に参ってましたけど、そんな私でも一緒に出掛けると喜んでくれたように感じて。

いや、生活をともにするご家族は重労働で、疲労困憊、社会との接点もどうしても少ない。きれいごとじゃないです。施設等でスタッフとして働く人も、仕事内容の割に賃金は低い。
そこはちゃんとフォローがないと、悲劇をうんでしまいかねない要素と思います。

 

もっと普通に、保育園のころから、どこでも当たり前に多様な人の中で育ち、働く環境にいたならば、皆が自分の良さに気づいて自分を大切に思える瞬間が増える気がします。
たしか、スウェーデンとかは、どんなに重度の障害でも、普通の学校に行って、能力に応じた仕事もすると、本で読んだことあります。

それに、最低限の生活ができる年金や社会保障があれば、無理に無理を重ねてうつや病気になる人は減り、再出発もしやすいと思います。
もし、障害をおっても、本人も家族も、もっと希望をもって進んでいけると思います。

これから急激に労働人口が減少する日本では、精神論でなく、多様性をみとめる社会にしていかないと、維持は困難だと思います。

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